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静岡地方裁判所浜松支部 昭和46年(ワ)77号 判決

原告

青島象三

被告

岡本悦郎

主文

被告は原告に対し金九七〇、〇〇〇円およびうち金九〇〇、〇〇〇円に対する昭和四六年三月二六日から支払ずみまで年五分の割合の金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを三分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

この判決のうち原告勝訴の部分に限り、原告が金一〇〇、〇〇〇円の担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の申立

一  原告の申立

1  被告は原告に対し金一、四七〇、〇〇〇円およびうち金一、四〇〇、〇〇〇円に対する昭和四六年三月二六日から支払ずみまで年五分の割合の金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告の申立

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  原告の請求の原因

1  原告は、昭和四二年八月一日午後八時五分ごろ、浜松市旭町四四番地先交差点において、右折しようとして停車していたところ、被告の運転する普通乗用車に後方から追突され、その結果外傷性頸椎症の傷害を負つた(以下本件交通事故という。)。

2  被告は本件交通事故当時右普通乗用車を所有し、自己のために運行の用に供していた。

3  昭和四二年一一月一四日原告と被告との間に次のような和解契約が成立した(以下本件和解契約という。)。

(イ) 原告の治療費は全額被告の負担とする。

(ロ) 被告は原告に対し、原告の休業損害の補償および慰藉料として金三〇〇、〇〇〇円を支払う。

(ハ) 今後本件交通事故に関しては双方とも裁判上または裁判外において一切異議、請求の申立をしない。

4  ところが原告は昭和四三年一一月ごろから再度頸部、頭部に痛みを感じはじめ、本件交通事故による外傷性頸椎症が再発した結果、本件和解契約成立後次のような損害を蒙つた。

(イ) 逸失利益 金三七一、三二八円

但し、原告は光タクシー株式会社にタクシー運転手として勤務し、一日当り金二、四一八円(五〇銭未満の端数は切捨)の給与の支払を受けていたところ、昭和四三年一二月一日から昭和四四年一二月一九日までの間休業せざるを得なくなり、右給与の支払を受けることができなかつたが、労働者災害補償保険法による休業補償給付等として右給与の六割を支給されたので、これを控除したもの。

(ロ) 慰藉料 金一、〇〇〇、〇〇〇円

原告は昭和四三年一一月三〇日から昭和四四年三月二八日まで自宅で殆んど毎日医師の往診、治療を受けて療養し、さらに同年同月二九日から同年五月二八日まで静岡労災病院に通院し、同年同月二九日から同年八月二八日まで同病院に入院してそれぞれ治療を受けたが、その後も昭和四五年六月ごろまで同病院に通院して一週間に一回程度治療を受けたことを斟酌したもの。

(ハ) 弁護士費用 金一〇〇、〇〇〇円

但し、原告は原告代理人に対し本件訴訟追行のための手数料として既に金三〇、〇〇〇円を支払い、謝金として本判決言渡後相当額を支払う旨約したが、右謝金は金七〇、〇〇〇円をもつて相当とするから、これらを合計したもの。

5  原告は昭和四二年一一月ごろになつて痛みもなくなり、本件和解契約が成立した当時は前記外傷性頸椎症の症状が全くなかつただけでなく、当初治療を受けた聖隷浜松病院でも昭和四二年八月五日「向後二ケ月間の安静加療を要す。」との診断を、同年一〇月五日「向後二週間なるべく過激な運動はしない方がよいと思われる。」との診断をそれぞれなす等医師も治癒したと診断したので原告および被告は原告の外傷性頸椎症が全治したものと信じて本件和解契約を締結したが、事実は外傷性頸椎症が治癒していなかつたのであるから、原告が本件和解契約締結の際なした損害賠償請求権放棄の意思表示にはその重要な部分に錯誤がある(しかも原告が右のように信じたことにつき全く過失がなかつた。)。

従つて本件和解契約のうち、損害賠償請求権放棄の条項は無効である。

6  本件和解契約の効力は、その成立した当時予想された損害についてのみ及ぶものであつて、当時全く予想されなかつた前記のような将来の重大な損害にまでも及ぶものと解釈すべきではない。このことは、原告が生活費にも窮し、早急に事態を解決する必要に迫られていたため、本件和解契約で休業補償および慰藉料として金三〇〇、〇〇〇円という決して多額とはいえない金額で満足する旨定められたことからも明らかである。

7  よつて原告は被告に対し、次のような金員の支払を求める。

(イ) 右合計金一、四七一、三八二円のうち金一、四七〇、〇〇〇円

(ロ) 右金一、四七〇、〇〇〇円から弁護士費用(謝金)を控除した残金一、四〇〇、〇〇〇円に対する本件訴状送達の日の翌日である昭和四六年三月二六日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合の遅延損害金

二  被告の答弁

原告の主張する請求原因事実第1項は認める。

同第2項のうち、被告が本件交通事故当時その運転していた普通乗用車を所有していたことは認める。

同第3項は認める。

同第4項は知らない。

同第5項のうち、原告が本件交通事故後聖隷浜松病院に通院して治療を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。外傷性頸椎症の再発した場合をも含めて本件和解契約は成立したものである。

同第6項は否認する。

第三証拠〔略〕

理由

一  原告の主張する請求原因事実第1項は当事者間に争いがない。

二  被告が本件交通事故当時その運転していた普通乗用車を所有していたことは当事者間に争いがなく、被告が右普通乗用車を自己のために運行の用に供していたことは被告が明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。

三  原告の主張する請求原因事実第3項は当事者間に争いがない。

四  〔証拠略〕を総合すると、次の事実が認められる。

原告は本件和解契約が成立した後である昭和四三年六月ごろから、本件交通事故による外傷性頸椎症が再発したため、頭痛、肩凝等に悩まされたが、昭和四三年一一月ごろからはさらに症状が悪化して常時涙が流れ、脱力感、右眼窩部痛等が激しくなり、同年同月三〇日から昭和四四年三月二八日まで自宅で一週間に一回程度神経科日吉診療所の医師の往診、治療を受けて療養した。しかし、病状は好転せずかえつて頸部の運動制限、握力の低下(右上肢一三キログラム、左上肢二三キログラム)等の症状も加わつたため、原告は同年同月二九日から同年五月二九日まで静岡労災病院に通院して、同年同月三〇日から同年八月二八日まで同病院に入院してそれぞれ治療を受け、その後も昭和四五年六月二六日まで通院して治療を受けた結果、漸くほゞ治癒したものの現在もなお疲労すると時には肩が凝り、後頭部が引張られるような感じがする状態である。

五  原告が本件交通事故後聖隷浜松病院に通院して治療を受けたことは当事者間に争いがない。

そして〔証拠略〕を総合すると、次の事実が認められる。

原告は本件交通事故後当初は池谷外科医院に、次いで聖隷浜松病院に通院して治療を受け、療養に努めたが、頭が重く、昭和四二年九月初旬ごろは茶碗や箸すら持つことができないほど右上肢が痺れることもあつた。しかし、聖隷浜松病院では昭和四二年八月五日「向後約二ケ月間の安静加療を要す。」との診断を、同年一〇月五日「向後約二週間なるべく過激な運動はしない方がよいと思われる。」との診断を、同年一一月初めごろ「ぼつぼつ身体をならしながら仕事をやつたらいいじやないか。再発することはないだろう。」との診断をそれぞれなす等経過は良好で、自覚症状もなく、原告の外傷性頸椎症は治癒したかのようにみえた。

そこで、当時生活費にも困窮していた原告は、被告に対し損害賠償の請求をなし、昭和四二年一一月一四日光タクシー株式会社本店において、前記三で認定したような損害賠償請求権の放棄条項が印刷されている「示談書」に署名押印して本件和解契約を締結した。(なお、本件和解契約の金三〇〇、〇〇〇円は、およそ、約三ケ月分の休業補償金二〇〇、〇〇〇円および慰藉料金一〇〇、〇〇〇円の合計金額である。)その際、同席していた光タクシー株式会社専務取締役服部が原告に対し「あとからゴクゴタを起すなよ。」と述べたところ原告も異議なくこれを承諾したが、原告は勿論被告も、原告の健康状態から判断して外傷性頸椎症が再発することは全く予想しなかつた。

以上の事実を総合すると、本件和解契約における損害賠償請求権の放棄条項は、本件和解契約が成立した当時予想された損害に対する賠償請求権のみを放棄したものであつて、その当時予想できなかつた不測の、しかも前記四で認定したように将来の重大な外傷性頸椎症の再発による損害についてまで賠償請求権を放棄したものと解すべきではないこととなる(最高裁判所昭和四三年三月一五日判決民集第二二巻第三号第五八七頁参照)。

六  そこで本件和解契約成立後、原告が本件交通事故によつて蒙つた損害について判断する。

(イ)  〔証拠略〕を考えると、原告は昭和四〇年六月一日から光タクシー株式会社にタクシー運転手として勤務し一日当り金二、四一八円(五〇銭未満の端数は切捨)の給与の支払を受けていたところ、本件交通事故による外傷性頸椎症が再発したため昭和四三年一二月一日から昭和四四年一二月一九日まで休業せざるを得なくなり、右給与の支払を受けることができなかつたが、労働者災害補償保険法による休業補償給付等として右給与の六割を支給されたことが認められる。

そうすると原告は金三七一、四〇五円(五〇銭以上一円未満の端数は一円と計算する。)の得べかりし利益を喪失したこととなる。

(ロ)  以上認定した事実を総合すると原告が精神的苦痛を蒙つたことは推認するに難くなく、これを慰藉するため金五〇〇、〇〇〇円を相当とするから、原告は同額の損害を蒙つたこととなる。

(ハ)  〔証拠略〕によれば、原告が損害賠償義務者たる被告から容易にその履行を受け得ないため原告代理人に本件訴訟の追行を委任し、原告代理人に対し手数料として既に金三〇、〇〇〇円を支払い、謝金として本判決言渡後相当額を支払う旨約したことが認められ、右事実に本件事案の難易、請求額、認容額その他諸般の事情を併せ考えると、当裁判所は手数料金三〇、〇〇〇円、謝金七〇、〇〇〇円合計金一〇〇、〇〇〇円をもつて本件交通事故と相当困果関係に立つ相当な弁護士費用と認める。そうすると原告は同額の損害を蒙つたこととなる。

七  ところで原告は被告に対し右逸失利益金三七一、四〇五円のうち金三七〇、〇〇〇円のみを請求する趣旨であると解されるから、被告は原告に対し合計金九七〇、〇〇〇円およびうち金九〇〇、〇〇〇円(右金九七〇、〇〇〇円から謝金である弁護士費用金七〇、〇〇〇円を控除した残金)に対する本件訴状送達の日の翌日であることが本件記録上明らかな昭和四六年三月二六日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合の遅延損害金を支払う義務があることとなる。

八  よつて原告の被告に対する本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、右の限度において理由があるからこれを認容し、その余の部分は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 増井和男)

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